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武蔵野航海記

武蔵野航海記

バチカン

ローマ

この都を始めて訪れた時、本当に感動しました。

本当に深い感動を私に与えた場所は、飛鳥とローマの二つだけです。

5月のゴールデンウィークに飛鳥を初めて訪れたのは30年近く前のことです。

未だ水を張らない田んぼは、一面の蓮華の花で紫色です。あの風景には体が震えてしまいました。

この景色を思い出すたびに、万葉集の額田君の歌を連想してしまいます。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

紫野に咲いていた花が蓮華かどうかは関係ありません。私は一面に蓮華の花が咲いていたと信じ込んでいます。この中での中年の恋の歌です。

この歌についても書きたいのですが、本題からかなり外れてしまうので、いずれ別の機会に書くことにします。

甘樫の岡に上ると、遠くに畝傍山・耳成山・天の香具山があり、眼の下はひたすらに優しい国原が横たわっています。

蘇我入鹿が埋葬されていた古墳は、今と違って自由に中に入れました。
飛鳥川の上流は水が澄んでいて、蛍も居そうでした。

神社にお金を払って禊をした上で、三輪山にも登りました。
あそこ登れるのですよ。

やはり私には、日本人の血が流れているのですね。

ローマを訪れた時も、これと同種の感動を覚えました。

アメリカ東部のボストンの港に、ピルグリムファーザースの記念碑があります。

しかし凄い名前をつけたものです。直訳すれば「巡礼する牧師団」となります。

メイフラワー号でイギリスからやってきた初代移民団を、アメリカではこう呼んでいます。

未開の地にキリスト教を持ち込んだ宣教師という意味付けですね。

本国で食いつめた貧民ではなく、専門技能と強固なカルヴァン派の信仰を持った集団の計画的植民でした。

彼らが創った神学校がハーバート大学です。

それから、彼らはインディアンの地を自分達の物にしていきました。

これは、チャイナやコリアの見方に従えば「侵略」です。

チャイナが日本を侵略者と呼ぶなら、USAをもインディアンへの侵略者と呼ばなければなりません。

又、自分達自身をも、チベット・満州・ウイグルへの侵略者と呼ばなければなりません。

世界史は異民族への侵略の歴史でもあります。

このピルグリムファーザースの像は牧師の姿ではありません。

トガを着ています。トガは古代ローマの云わば背広です。

ローマ人がやってきたのです。USAは古代ローマを模範にしています。

アメリカの上院を Senate といいますが、これは古代ラテン語の Senatus が語源です。元老院という意味です。

私がローマに来たとき、「とうとうアメリカの原点に戻ってきたのだ」という感動を覚えたのです。

私は初めてのローマの町を朝から晩まで歩き回っていました。

ローマは港町ではありません。地中海に注ぐテヴェレ川を40kmほど遡ったところにあります。

川のほとりの七つの丘に囲まれた直径2kmの町で、日本の基準からすれば大きな町ではありません。

ヨーロッパの町は大きさがはっきり分かります。城壁があるからです。

テヴェレ川の東側にあるパラティーノの丘周辺が中心地で、フォロロマーノがあります。

フォロロマーノは、歴代の皇帝が作った建物や凱旋門が密集しています。

建物といっても別に皇帝の住む家というのではなく、いってみれば公会堂のようなもので、市民の為に作られたのです。

そのすぐ横には、コロセウムがあります。武装した奴隷同士が死ぬまで戦ったのを見世物にした闘技場です。

奴隷はライオンなどの猛獣とも戦いました。

このコロセウムで死んだ奴隷の数は、数十万人にのぼるそうです。
いや百万人になるという学者もいます。

この奴隷という存在を現代人は理解していないのではないでしょうか。

特に日本には、昔からそんなものはありませんから想像を絶しているもののようです。

我々は、牛や豚を何千万頭と屠殺して食べていますが、特に何も感じていません。

どうやら奴隷とは人間と同じ姿をした牛や馬と考えたほうが良さそうです。

ヨーロッパやアラブには、二百年ぐらい前まで奴隷がいましたから、その発想が残っています。アメリカが実質的に奴隷制度を廃止したのは約四十年前です。

キング牧師などが頑張った公民権運動で、最終的にアメリカから奴隷がいなくなったのです。

ヨーロッパやアメリカの企業では、各人のやるべきことがきちんと決まっています。

最下層の単純労働者に対しては、「考える」などということを要求していません。

マニュアル通りにすれば良いという態度です。これは奴隷の扱いです。

チャイナには宦官がいました。去勢するというのは、家畜並みの扱いです。はっきり云えば、宦官は奴隷です。

今チャイナは、奥地の安い労働力を活用して経済発展を遂げようとしていますが、これも奴隷制度の習慣があったから抵抗が少ないのでしょう。

企業の経営管理手法もアメリカを手本にしていますが、これもアメリカの奴隷制度と共通の発想があるから受け入れ易いのでしょう。

日本は、近代産業を興した際労働者を奴隷ではなく人間として扱いました。

レーバー(単純労働者)に自分達で考えて問題を解決させるという小集団活動は、ヨーロッパ人やアメリカ人にはとんでもない発想でした。

しかし、この日本的やり方で生産性が上がったので、彼らも真似をするようになりました。

日本人は、「同じ人間だから」とお互い理解し合えると考えてしまいます。

しかし日本人以外の民族は、「人間」と「人間でない人間」の二種類に分かれています。

日本人が外国人との交渉の際にトンチンカンなことをするのは、一つにはこのギャップを理解していないからです。

これは、アメリカと日本の両方に暮らした経験のある私の実感です。

巨大なコロセウムの廃墟の中で、私はこんなことを考えていました。

テヴェレ川の西側にサン・ピエトロ教会があります。

ピエトロはペテロのイタリア語よみで、英語ではピーターです。

聖ペテロ教会ですね。この教会の神父がローマ法王で、神の代理人でもあります。

ペテロは、イエス・キリストの最初の12人の弟子の一人で、ユダヤの地のガリラヤ湖の漁師でした。

ペテロに限らず12人の弟子は、ごく普通の男たちで特に頭が良いとか毅然たる態度をしていたということではありませんでした。

イエス・キリストが彼らに「ついて来い」というと、不思議なことに仕事と家族を放り出してついてくるのです。

イエス・キリストの生存中は、彼ら12人の弟子が師匠の教えをどこまで理解していたか疑問です。

彼らは師匠のイエス・キリストが逮捕されるとき、自分も巻き添えになることを恐れてイエス・キリストとは赤の他人のふりをします。

イエス・キリストは、自分が逮捕され殺される時に、12人の弟子がとる態度を予め分かっていました。

そして「最後の晩餐」の時に、自分の死後を予言します。

十字架に架けられて死んでから、三日後に復活するというのです。

キリスト教ではこの「復活」を重視します。イエス・キリストが神であることの証拠だからです。

又、人は「原罪」を負っていますが、イエス・キリストが身代わりになって死んだことにより罪を許されたのです。

「復活」はイエス・キリストが罪なくして罰せられ、人々の身代わりになったからこそ出来たのです。

事態はイエス・キリストの予言どおりに進行します。

死んで葬られた墓の中を三日後に調べたら、空になっていました。


その直後、イエス・キリストが弟子達の前に現れます。
そして自分の腹にある槍で突かれた傷跡を、弟子達に触らせます。

この時初めて弟子達は、師匠がとんでもなく偉い存在(人であると同時に神)であることが分かり、自分達の使命の重さを自覚したのです。

人が変わったようにシャキっとした弟子達は、広大なローマの全域に布教の旅に出ます。

ペテロは世界の中心であるローマで布教活動を行いました。

当時のローマではキリスト教は禁止されていましたから、ペテロはとうとう死刑になってしまいます。

十字架に架けられることになったのですが、師匠と同じでは恐れ多いとして、「逆さ十字架」を自分から提案します。

逆立ちした格好で十字架に架けられたのです。

ペテロの遺骸は今でもサン・ピエトロ教会の地下に埋葬されています。

ペテロとはヘブライ語で岩のことです。

聖書の中の「マタイによる福音書」には、イエス・キリストの語った言葉として下記が書かれています。

「私もあなたに言う。あなたはペテロである。そして、私はこの岩の上に私の教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。私は、あなたに天国の鍵を授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天国でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

これがローマ法王の権威の根拠です。

イエス・キリストがペテロを後継者に指名し、地上での代理人に任命したと主張する根拠です。

ローマ法王のする解釈が、正しいキリスト教の解釈になります。

ここからローマ法王の言うことは全て正しいという「法王無謬説」が出てきます。

ペテロは初代のサン・ピエトロ教会の神父であり、初代のローマ法王でもあります。

歴代のローマ法王はペテロの後輩です。

ちなみに「福音書」は、英語では「GOOD NEWS」です。
「いい知らせがある。皆喜べ」という感じです。英語の方が良いですね。

私はとうとうキリスト教の大本山にたどり着きました。

教会を守っているのは、例のスイス人傭兵です。

サン・ピエトロ教会は、「バチカン市国」という独立国でもありますから、軍備が必要です。

「信仰によって国を外敵から守る」という発想はありません。武力には武力で対抗するという考えです。

バチカンでもスイス人傭兵の評価は高かったのです。

彼らは、あのミケランジェロがデザインした制服を着ています。
軍服という硬い感じではなく、カーニバルにふさわしいような軽やかな服です。
これを着ているのはハンサムな若者達です。

スイス人の大多数は、カトリックでなくカルヴァン派のプロテスタントのはずです。

それともカトリック信者を選んだのでしょうか。そんな余計なことを考えてしまいました。

サン・ピエトロの広い敷地の中に、システィーナ礼拝堂があります。

ミケランジェロが生涯の最後の6年間をかけて描いた天井画「天地創造」と祭壇に描かれている「最後の審判」であまりにも有名です。

そのほかにもあちこちに沢山の絵が置かれています。

夏場の観光シーズンは、入り口に長蛇の列が出来ます。


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